どこで食べるか。それが問題だ。

「何が食べたい?」
そう聞かれて、なんでもいい、と答えることが最近多くなった。

「そういうの一番困る」そう言われても、食べたいものが本当に思いつかない。食べることは生きること。そんな言葉が脳裏を過る。私は食事の殆どを惰性で行っていることに気が付き、愕然とする。

食べたいものがないなら食べなければいい。食べたくなるまで待てばいい。だが、私は毎日ほぼ同じ時間に食物を口に入れる。咀嚼する。飲み込む。
食事の時間は決められている。いままでそう思って来たけれど、どんな時間でもPCの前でおにぎりを食べるくらい問題ないはずだ。さらに、食事を抜いたところで大して支障はないはずだ。痩せるほどの頭脳労働も、男性レベルの肉体労働もない。

私には空腹の実感がほぼない。一日中PCの前に座り、水分を取るとき、出力を出すとき、人に書類を渡すときだけ、ほんの数歩歩く。一日の移動距離は1キロにも満たないのではないか。それでは腹の空き様がない。
決まった時間に、決まった場所で、適当に選んだ食事を詰め込む。不味くもないが、驚くほどの旨さもない。PCを覗きながら、本を読みながら、ただ出された料理を口にする。それはもはや食事とも呼べないような行動だと思う。無意識に惰性で、生死に係る行為を私は毎日行っている。

帰宅すると、カレーの匂いが漂った。「カレー作った」同居人が言う。まだ食べていないというのでカレーを温め、それぞれの皿に盛りつけ、一緒に夕飯を食べる。
そのカレーは私が作るものよりも食材が倍以上大きな塊で入っていた。スプーンで切りながら、かぶりつきながら皿のカレーを平らげた。美味しいね。私は言った。お腹の下から力が湧いてくるような気がした。

同居人は私より多い量を二皿平らげた。大きなフライパンいっぱいのカレーはどんぶりに収まるほどに減っていた。残りのカレーを冷蔵庫に入れながら私は思い出していた。同居人と向かい合って食事をすることが殆どないことを。

私は昔からなぜか、たくさん食べる人が好きだ。私の皿を見て「いらないの?食べるよ」と言ってくれる人が好きだ。男性でも女性でもたくさん食べる人との食事は楽しく、元気が出る。だけれど、その人たちとの食事の機会は減ってしまった。せめて、数少ない大食漢との食事は向き合ってしたい。

翌日、私は同居人の向かいに座った。「どうしたの」同居人が聞く。「狭くない?テレビ見えないよ?」

大丈夫。本当はここが私の定位置なの。
posted by すく at 10:57Comment(0)日記